間もなく夜が明けようとしている。一寝入りした男は、目を覚ますと逃げるように引き揚げて行った。彼の首筋はまだ切り裂かれてはいなかったが、気になるのか首筋に手を当てながら部屋を出て行った。彼が目覚める前からエリがずっと出していた妖気實用辦公室傢俬が彼をそのような気持ちにさせたのだろう。
 ベッドに横になったまま男を見送ったエリはそのまま手を伸ばし、ベッド脇のテーブルの一番下の引き出しを開けて奥から何かを取り出した。そしてそれを手首の陰に隠し持ったまま、ユーティリティへ入って行った。狭いユーティリティには、シャワーと手洗い、便器、そしてビデが詰め込まれていたが、エリはそのうちのビデに腰掛けた。そして正面の壁にある鏡を覗きこんだ。
 そこに居るのは昨日の朝まで鏡の中に居た自分ではなかった。それはとっくの昔に失われてしまったと思っていた自分だった。ゆったりと微笑みながら頭(かしら)の指示を待つ、あの時の自分だ。「あいつのせいだ」エリは手首の陰に隠し持っていた物を器用に持ち替えると斜めに動かした。シャワーカーテンが斜めに切り裂かれパックリと口を開ける。エリが隠し持っていたのはナイフだった。それは長い時間をかけて入念に研磨され、冷たい輝きを放っている。エリはそっと刃に指を当てて、チリチリとしたその感覚を確認する。そしてナイフを口元にやり、その刃にそっと舌を触れさせる。わずかでも動かせば血が流れるだろう。その冷たい感触を使って、エリは気持ちを元の位置へと押し戻そうとした。昨日、あの男たちが雲芝癌症やってくる前の状態にまで。 雨が上がって日がると、大気は一気に蒸し暑さを増した。
 通りに沿って立ち並ぶ中層の建物は薄汚れ、くすんでいて、あちこちが傷み、歪んていた。
 路面はアスファルトで舗装されていたが、あちこちが剥がれ、めくれあがって水が溜まっていた。往来する自動車がそれにタイヤを落とし、あちこちで跳ねを上げた。
 フワリは軒先を出て、そこここにできた水溜まりや、行き々を避けながら通りを歩き始めた。
 彼女はまだ12歳だったがその割には背が高く、背の割には体重が不足していた。つまりやせっぽちだった。肌の色はやや濃いめで、大きな目と深い湖を思わせる藍色の瞳が印象的だ。そして腰まで届く漆黒の髪は首の後ろでシンプルに束ねられ、律動的な足取りに合わせてリズミカルに揺れていた。
 身に着けているサイズの小さいワンピースは、もともとの色が何色だったのか想像することも難しいくらい変色していたし、そのほっそりとした長い足にまるで似合わないズック靴は、メーカーも分からないくらい型崩れしていた。上空には大きな二重の虹がかかり始めていたが、彼女がそれに気づいた様子は全くなかった。
 もっとも、大勢歩いている、あるいはたむろしているこの街の住人人民幣 港幣の中で、その大きな虹に気が付いた者がどれだけ居たのだろう。おそらくその住人を探し出すことは至難の業だ。