僕はこれまでに
幾つかの《詩のようなもの》を
書いてきましたが
まだ《詩》がどういったものなのか
理解できていません。


「じゃあ、小説は? 理解できてんの?」と訊かれたら
そっちのこたえも「ノー」なんですけどね。


そう、
僕はだいぶん前から
「小説を書きたい」と考え、
ノートや原稿用紙やパソコン上に
文章を書いてきました。
でも、
それが《小説》なのか
《小説のようなもの》なのかすらも
わかってはいないんです。


ただ、
(これは感覚上のことですけど)
自分が書いている長い文章は
《小説》なのだと思うようにしています。
けっして
《小説のようなもの》とは考えていないんですね。


同様に短い文章も
《詩》だと考えられればいいのですけど、
そちらは
どうもうまくいきません。
より正直にいえば、
僕はああいったものを書くと
後ろ暗いような気になるんです。


もちろん
書きたくて書いているもnew beauty hkのなので
その後ろ暗さは
自分自身に向いているのではなく
他者に向けられているのでしょう。


これも
より正直にいえば
「こんなのを《詩》と名いのだろうか?」と
僕は思っているわけですね。
他者の視線からして
これは《詩》といえるのかについて
はなはだ自信が無いのです
(だから、写真とともに掲載して
その後ろ暗さを薄めようとしているのだと思います)。


しかし、
この問題の簡単な解決法はわかっています。
最も簡単なのは
「だったら書かなきゃいい」というものです。
これは単純明快な解決策ですよね。


ただ、
それでも僕は書いてしまうんです。
《詩のようなもの》を。


言葉を連ねさせ
そこに
書かれた言葉以外の(可能であれば、以上の)
意味を持たせたくなるんですね。
《小説》では表現できない
感覚的な広がりや余韻をあらわしたいという
欲求に従new beautyってしまうのです。


――という
言い訳がましいことを
つらつらと書いたのは、
僕が5つの《詩のようなもの》を
またしても
書いてしまったからです。


それを
読んでくださった方が
なんでもいいから
なにかを感じてくれたら、
きっと
僕の慎ましやかな願いが
叶ったということになるのでしょう。

 

(というわけで、明日から5日間、
《詩のようなもの》を連続して載せていきます)

本日、『FishBowl』の14章を公開したのですが、
僕はもうかなり疲弊しています。
15章の書き直し作業はいまだ終わらず
毎日「うーん、うーん」と唸りつづけてもいます。


いっそのこと
もうやめにして
清々したいと考えるようにすらなってますね。
100%の本気ではないけれど、
投げだしたい気分であるのは確かです。


まあ、
しかし、小説を書きつづけ
ある程度まで進むと、
毎回そういう気分になるので
これもそれと同じなのでしょう。
そうであって欲しいと
自ら望みますね。


ところで、
僕は小説を書いていると――そして、
うまく進められないでいると
あるイメージにとらわれます。
それは、
内側にぎゅうぎゅうと詰め物をされた
硬い殻のイメージです。


その殻は
それまでnew beautyに書いた《事実》の積りによって
硬度を増していったのです。
だから、
物語が長くなると
さらに硬くなっていくのですね。